鳴きを阻止する邪魔ポン、ハイテイ番を消す大ミンカン、といったテクニックは、
端的に言えば麻雀のマニアックな蘊蓄であり、知っておいた方がいい部分ではあるが、結果に直結することが多いわけではない。
しかし、確かに高宮は鳴くべきではあった。
ただ──、今明確に役満をアガり損ねたことを自覚したグラついた精神状況で、
すぐに回った多井の手番に反応することは、そう簡単でもないかもしれない。
これは自戒を込めて。
こうした限定的な状況の判断は、自身の保てる反射神経や思考力に依る。
長丁場の最終局面、4つ目のアンコが最後のツモで舞い降りた瞬間に、もし自分なら実践できていたか──。
そんな想像をついしてしまう。
奇しくも4月14日(金)の試合で、高宮のチームメイトである佐々木寿人が、ポンしてリーチ者のラスヅモを飛ばした場面があった。
これはもちろんしなければならないし、寿人にとっては当然の技術である。
ただ知識としてある者でも、常に実践できるとは限らない。
麻雀には、そういう側面が無論ある。
もし観戦している方で、終盤などに
「切る牌は一つなのになぜこの選手は長考しているのか?」
と不思議に思われたときは、
どこから何が出たら鳴くべきか、鳴いたら何を切るか、そもそも他の牌を切ることでもっと良い結末にならないか──、
など、終盤ならではの思考と準備、必要な動きがあることを意識されるといいと思う。
麻雀はスポーツである、とはよく言ったものだと思う。
長期戦に耐えうる体力、揺るぎない精神力、
即断即決の判断力と実践力も必要である。
頭の回転だけで戦えるゲームでは到底ない。
高宮は、四暗刻を逃した。
その結果自体は大きすぎるのだが、ツモ牌の裏目はもう受け入れるしかない。
朝倉がそれを重要視しなかったように──、選手の未来にとってはこれを悔やむことが価値のある行為ではない。
零れ落ちた役満の後、高宮の手に残されたのは、小さな宝石だ。
ここからやらねばならないことの洞察、それを実行できる挫けない意志という、
高宮にとってこれからさらなる伸び代の機会を与えてくれた希望の石。
ただ四暗刻をツモっていては見つからなかった、自身のもっと強くなれる部分なのである。
これは私たちにとっても同様に、価値ある教えになったのではないだろうか。
高宮は、むしろ幸運だったのかもしれない。
逃した僥倖の果てにも糧があり、
チームの頼もしい先輩である寿人がすぐに示してくれた偶然。
これからの高宮をもっと輝かせる──、
小さくとも、かけがえのない発見だったのだ。
日本プロ麻雀協会1期生。雀王戦A1リーグ所属。
麻雀コラムニスト。麻雀漫画原作者。「東大を出たけれど」など著書多数。
東大を出たけれどovertime (1) 電子・書籍ともに好評発売中
Twitter:@Suda_Yoshiki