中央線アンダードッグ
長村大
第44話
たしか、よく晴れた日だったような気がする。そんな記憶がある。けれどほんとうは曇りだったかもしれないし土砂降りの雨だったかもしれない。よくわからない。ただ、珍しく気分のいい日だったのだ。
この店には、常連客しかいない。これは大げさでもなんでもなく、決まった人間しか来ないのだ。誰が何曜日の何時くらいに来る、ほとんど決まり事のように同じパターンが繰り返されていた。おれがいた二、三か月ほどの間にそれぞれがそのぶんの年を取る、変化といえばそれだけであった。スモール・サークル、そして閉じられた平和。
「いらっしゃいませ!」
扉が開いて入ってきたのは、知らない顔であった。小太りの中年男、おれは少し緊張して、相手の目を見ないようにした。「初めてのお客様でしょうか」と問いかけるべきか、逆に古参の従業員の目を見た。
「〇〇ちゃん、久しぶりだねえ」
古参が客に声をかけた。どうやら新規の客ではないようだ。それを機に、おれは身を隠すようになるべく目立たない位置に移動した。
「なにしてたの? まさか別荘行ってたんじゃねえよな?」
別荘とは刑務所のことである。
「バカヤロウ、サラリーマンがなんでそんなとこ行くんだよ。ちょっと出張でね、東京行ってたんだ」
小太りが笑って答える。
「……彼は?」
続けて小太りがおれのことを古参に聞いた。
「少し前から働いてもらっててね、よくやってくれてるよ。古川くん、ちょっと来て」
呼ばれたら仕方ない、寄っていくしかない。この頃にはもう、古川と呼ばれることに違和感もなくなっていた。
「古川といいます、よろしくお願いします」
「はいよ、よろしく」
小太りがおれの顔をじっと見た。おれはその視線を避けるために、冷蔵庫を開けてビールの残りを数えてみたりおしぼりをボックスに詰めてみたり、さしてやる必要のない仕事を始めた。
その間にも小太りと古参がなにか喋っている、おれの話だろう。チラチラとこちらを窺っているような気もする。もともと自意識過剰だが、今は過剰に自意識が過剰なのだ。
ああ、と思った。閉じられた、平和。
「古川くん、偽名だったんだ」
その客が帰った後に、古参が話しかけてきた。彼に悪気はない、ただ思ったことを口にしているだけだ。ただし、悪気のない発言が悪い結果を生まないわけではない。
「……すいません」
「いや別にいいんだ、咎めようってわけじゃない。所詮雀荘のメンバーなんて、はみ出し者がやるもんだからな、なにかしら事情のある奴は多いよ。しかもいきなり飛び込みで働かせてくれ、だもんな」
古参が笑う。いい奴なのだ。
「でも」彼がさらに続ける。「なんか麻雀の……プロ? だったんだって? さっきの〇〇さんが東京で見たってよ」
「いや、ほんの少し競技麻雀てやつを齧っただけですよ」言い訳をしたり嘘をつくとき、人は早口になる。
「人違いじゃないですかね?」
とびきりの早口でおれは言った。
「雑誌に載ってたって言ってたぜ」
彼としてはからかっただけのつもりであろう。だが、おれはもう一秒たりともこの空間にいることに耐えられなかった。
「そんなわけないじゃないですか。あ、ちょっと用があるので、お先に失礼します!」
わざとらしく時計を見て、退勤時間よりわずかに早かったようにも思ったが、おれは素早く店を後にした。
寮に帰り、手早く荷物をまとめた。といっても、まとめるべき荷物などほとんどなかったが。量販店で買った服はそのまま置いていったが、伊達メガネだけはかけっぱなしだった。
寮を飛び出る。
早番終わりの午後10時過ぎ、店の客など出会わないように道の端っこを俯きながら早歩きで駅に向かう。もちろんそんな心配は杞憂だ、道を歩いているやつなんて誰もいやしない。それでも俯く、誰かの視線から逃れるように。あるいはそれはおれ自身の視線か、だとすれば一生涯逃れることはできない。
ホームに着いたら、ちょうど電車がやってきたところだった。行き先など見ずにそのまま電車に乗り込んだ。手持ち無沙汰そうな乗客が二、三人いる、どっちに向かっているのかもわからない電車、来たときと同じ着の身着のままだ。かばんに放り込んだほとんど手つかずで残していた給料、あとはメガネが増えただけだ。
古参には悪いことしたかな、と少し心が痛んだが、電車が動き出したとたんにそれも忘れてしまった。
長いのか短いのかわからない、観光地での生活であった。楽しい思い出も辛い思い出もない、ただ生きていただけの時間。一つ言えるのは、またも人様に迷惑をかけることを知りつつ、おれはその場所を後にしたということだ。一度やったやつは何度でもやる、犯罪者と同じだ。
こうして古川という人間が、この世からいなくなった。
第45話(9月7日)に続く。
この小説は毎週土曜・水曜の0時に更新されます。