中央線アンダードッグ
長村大
第46話
オーラス、トップと3千点差ほどの2着目である。5巡目にを仕掛けてこの手牌となった。
ツモ ドラ
リャンメン二つのイーシャンテン、安全牌のを抱えてを切るのが堅い。だが打とした。
次巡、ツモ。
ツモ ドラ
わざわざを残したのはこのツモのためである。打。そして次巡ツモでテンパイ。
ツモ ドラ
を切っていれば普通に待ちのテンパイ。もちろんそれでも悪くない。端にかかった待ちならアガりやすい、2着キープはできそうだ。
案の定というか、がボロボロとこぼれてくる。おそらくアガり逃しになっているだろう、だが気にしない。
盲牌する親指に独特のゴリっとした感触。「痛い」と表現するやつもいる。ダイヤ──もちろんそれを模したプラスチックが埋め込まれただけだが──入りのである。普通の赤牌は千円だがこいつは2千円、「ええほうのええほう」だ。
テンパネでナナトーサンの2千円オール。きっちりトップになった。
「かー、黒なら変わんないのか、打っとけよなー」
2秒前までトップだったおっさんが手牌からを卓に叩きつけた。
「いやあ、ツイてます」
それを笑って受け流した。
歌舞伎町の東風戦は3枚の赤牌プラスどの種類かにもう1枚、倍の祝儀牌を入れているところが多い。この店は赤に加え、ダイヤ入りの赤であった。ピンズが偉いのだ。
ドラもなにもない2着キープの仕掛けからのこの結果。気分が悪かろうはずもなかった。
「中央線よ、おれは帰ってきた」などとアホなことは言わなかったと思うが、自信はない、もしかしたら言ったやもしれない。といってもたったの半年ぶりくらいではあるが、その間にいろんなことが起こった。住み慣れた阿佐ヶ谷に暮らすのも、なんだか久しぶりな感じがしていた。
短い間住んだ八王子も中央線の沿線ではあったが、どうにも文化圏が違うように思えた。やはりおれにとっての中央線とは新宿から吉祥寺あたりまでの間を指している。
そしてやはり、麻雀だった。
数か月の引きこもりを経て家を出る際、親には「知り合いのところで働く」と言っていたが、もちろんそんなのは嘘っぱちである、なにも決まっていない。とりあえず足が向かったのは、歌舞伎町だった。
かといって誰か知り合いに遭遇するのは避けたい。セントラル通りから少し横道に入った汚いビルの三階にあるその店は、そういう意味ではうってつけの場末であった。
たまたま収支が合っていたこともある、ひとまずの細い資金があるうちはブラブラして過ごそうと思っていた。そのうちなにがしかの仕事を見つける必要はあるだろうが、出版関係にはもう戻れないし戻る気もない、そもそもまともな就職などしたことがないし、できるとも思えない。だがなんとかなるだろう、そんな気がしていた。ロストジェネレーションなんて言葉はまだなかったが、どちらにしろおれには無関係だ。
久しく酒など飲んでいなかった。
なんとなく以前たまに行っていたショットバーに顔を出してみた。歌舞伎町交番から道を挟んで少しだけ東側にある、地下の店である。
カウンターに立っている二人のバーテンのうち、一人は知った顔であった。
「あれ、小山田さん久しぶり」
バーテンといってもまだ学生くらいの若さの彼が、声をかけてくれた。軽く手を上げてそれに答える。まだ夕方の早い時間だ、客は誰もいない。
カウンターの一番端に座り、以前と同じようにまずはビールをオーダーする。日本のメーカーの生ビールだ。それを飲み干すと、次はジャックダニエル、ロックでライムを絞ってもらう。久々に体内に取り込まれたアルコールは、予想以上におれをリラックスさせてくれたのかもしれない。
ぼちぼちと客が入って来て、静かだった店内もざわめきだす。オーセンティックなバーも悪くないが、こういうほうが身の丈に合っている。
バーテンや近くに座った客とする、切れ端のような会話。いわゆる世間話、おれがもっとも苦手で、ある意味では憎んでさえいた表面のみの会話。軽佻浮薄、あるいは無意味。
だがおれの心は、ぶら下がっていた重い錠前がふっと消えたように軽かった。義理と不義理、責任と無責任、大人と子供、普通と異常、義務と権利、いずれ下らないことのように思えた。このなんの価値もない夏休みの終わりのような日々をできるだけ長く続けることにこそ、価値があるように思えた。可能な限り縛られるものを少なくして、フワフワと生きるのだ。
ガキっぽいだろう、三十路も近くなった男の考えることではないのだろう。そんなことはわかっている、だがそう思ってしまったのだ。
雲だって掴める、軽やかに。そう思って見上げた歌舞伎町の夜空はなんだか白茶けていて、雲なんて一つも見えなかった。
第47話(9月14日)に続く。
この小説は毎週土曜・水曜の0時に更新されます。