西原理恵子 & 山崎一夫 高田馬場の三馬鹿物語

高田馬場の三馬鹿物語
島本なめだるま親方

西原理恵子さんと私の共著「高田馬場の三馬鹿物語」(竹書房)に登場する、末井昭さんと島本慶さんは、古くからの友だちです。

知り合ったのは島本さんが先で、まだ私たちが二十代だった高田馬場の雀荘です。

長髪かアフロだったと思うんですが、今の年齢では、物理的に無理なヘアスタイルです。

島本さんの職場は雀荘の隣にあった小さな印刷屋さん。
若い島本さんは漫画家志望でしたが、なかなか本格デビューできないのでアルバイトをしておりました。

島本さんの仕事は、タウン誌の企画・取材・原稿書き・イラスト・デザイン・編集、さらには広告取り・製本・販売までやってました。

一人出版業界です。

「印刷機を回すのだけは意地でもやらなかった。それやると完全な印刷屋になって、自分がやりたいことができなくなるような気がして」

そこの社長はそういう若者に理解があり、仕事の後はいっしょに良くセット麻雀を打ってました。
社長も島本さんも、勝負事にアツくなるタイプで、徹マンになることもしばしば。

「島本、そんなに負けて、ウチの安い給料で払えるのかよ」

「すぐに取り返しますって」

「給料日は明日だぞ」

やがて島本さんは、その店のバラ打ちに参加するようになりましたが、まるで花咲か爺さんのように、点棒とご祝儀をバラ撒いてました。

島本さんの実戦を、私がアドバイスしたことがありますが、見る位置が難しい。

隣の手牌が見えないようにするため、私は島本さんが座っている椅子の背もたれに腰をかけて、両足はヒジカケです。

ちょうどバイクのタンデム(2人乗り)みたいな感じです。

「違う違う、チートイツでドラ切ってどうすんの」

「山ちゃん、俺の後頭部にダスキン多摩、しないでね」

「ふひゃひゃ」

徹夜で脳ミソが溶けかかった仲間が力無く笑います。

現在のフリー雀荘では、完全にダメですが、当時のバラ打ちは、マナーやルールに関してとてもルーズだったんです。

●マナーは気にしない。
●ルールはなるべく守る。

 

くらいの感じです。

「チー」

「ポーン! お前ぇに鳴かれるくらいなら、チートイツのテンパイ崩すわ」

とかね。
島本さんの自費出版の漫画を見て、セルフ出版(現白書房)の末井昭さんが訪ねて来ました。

「島本さんは、漫画よりも本人がおもしろい」

「何それ」

「ウチの雑誌で1台16ページやってくれないかな。企画から全部よろしく」

編集プロダクションの誕生です。

出版業界では伝統的に麻雀のつきあいが多いんですが、この時点では末井さんは麻雀をやってなくて、私たちはまだ知り合っていません。

島本さんは、昼間は印刷屋さんで編プロの内職をやり、夜は麻雀を打ち、深夜は掘りごたつでチンチロリンをやってました。

「次号は山ちゃんの取材記事を4ページやるからよろしく」

「ギャラは?」

「とっくに麻雀で何倍も払っとるわい!」

 

元祖風俗ライターは
還暦歌手ペーソスになった

話はさらにさかのぼるんですが、私たちが二十代中ごろに新宿三丁目の追分交番で、過激派が手製爆弾を爆発させました。

警察官など10人近くが大ケガをした事件です。
私はその爆音を近くの紀伊国屋書店のエレベータで聞きました。

同時刻、島本さんは明治通りのバーで、救急車やパトカーが大挙して現場に向かうのを目撃したそうです。

爆弾犯人の一人Kさんは、長い懲役の後、縁あって末井さんの養子になり、末井さんの紹介で出版社に就職。

一時は西原さんの担当をしていました。

過去のバラバラな出来事が、後ほど一つに繋がっていることに驚きました。

島本さんは、末井さんといっしょに、当時東京に初登場した豊島区東長崎のノーパン喫茶「ルルド」を取材。

 

それをキッカケに、島本さんはなめだるま親方として、風俗ライターになってしまったんです。

島本さんの漫画家としての単行本はなかなか発売されなかったんですが、「ノーパン革命」という風俗の単行本が島本さんのデビューになってしまったんです。

その店は後日「さつき」という雀荘になり、西原さんや馬場プロや五十嵐毅プロといっしょに良く麻雀を打ちました。

男性プロ2人は「ルルド」時代は知らないそうです。

麻雀仲間は一緒に遊んで楽しいだけでなく、友だちが増えたり、困ったことを相談したり、いっしょに仕事をしたりなど、、ありがたい面がたくさんあります。

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