中央線アンダードッグ
長村大
第41話
「リーチ」
自分の声が、誰か他人の声のように聞こえる。
歌舞伎町交番のはす向かい、今はもうない、コマ劇場の端っこにくっつくように立っていた細長いビルの3階。まるで気の入らない麻雀、意味のない麻雀。
「遅番の〇〇、やっぱりトんだんだってな」
「だろうな、三日連絡取れなかったんだろ? しかもあいつ、だいぶアウトオーバーしてたしな」
後ろから従業員の話し声が聞こえてくる。初めて見たはずなのにどこかの雀荘で会ったことがあるように見える、典型的雀荘従業員スタイル。メーカーが「従業員プロトタイプA・中年」として麻雀卓とセットで売っているのかもしれない。
ちなみに「トぶ」というのは「バックレる」とほぼ同義で、要はなにも言わずに職場を去るということだ。「アウトオーバー」の「アウト」は店からの借金で、それが給料よりオーバーしている、の意である。
「どうした? お兄ちゃんの番だぞ」
「客プロトタイプA・初老」がおれに声をかける。
「あ、すいません」
ボーっとしていた。ツモ山に手を伸ばそうとした瞬間、初老の捨て牌が当たり牌のであることに気付く。
「すいません、ロンです」
ドラ 裏ドラ
「ハネマンの2枚、です」
三人がおれの手牌をじっと見ている。なにかおかしいだろうか? メンピンドラドラ赤、裏ドラ1枚で確かにハネマンだ。
初老が彼の上家、つまりおれのトイメンの捨て牌をチョイチョイ、と人差し指で示す。だ。
まごうことなき同巡フリテンである。まったく見ていなかった。チョンボの罰符を支払い、同僚がトんだ話に花を咲かせている二人にラス半を告げる。点箱にはまだ点棒がいっぱいにある、チョンボを払ってもトップで終われるくらいには。
店を出てポケットの金を数えてみると、5万円ほど増えていた。5万円、と思う。5万円。
結局、当てにしていた300万は借りられなかった。株が、とか先物が、といった理由だったと思うが、よく憶えていない。嘘であったかもしれないが、それもどうでもよい。
とにかくどこからか金を用意しなければならない。テナントはすでに借りている、手持ちの金では次の家賃すらままならない、始まる前に終わりだ。
借りられそうなところは全て当たった。小口でいくらかの金は借りられたが、成果はそれだけだった。借りておいて言うのもなんだが、焼け石に水であった。あるいは金を借りるために必死になる、ということにどこか抵抗があったのかもしれない。元々ない状態で始めようというのだ、その時点で覚悟が決まっていないということだ。甘ったれているのだ。
毎日毎日、金のことばかり考えていた。当たり前だが考えていても金は増えないし、考えなくても増えない。精神状態も悪化していた。段ボールすら開けていない八王子の部屋で、午後になって起きだしては薬と酒を飲む。食欲は全然ない。電話が鳴っているような気がする、でも見ない、どうせなにかの催促だろう。また頭まで布団に潜りこむ。一日何十時間でも寝られた。寝ている間は金のことを考えなくて済む。
たまに頭がハッキリしているときに、金の算段を考える。二秒で行き詰まる。どうにもならない。
今になって思い出すと、こんな生活をしていたのは大して長い期間ではない。せいぜい一か月くらいのものであっただろう。だがおれの記憶には、もっと、ずっとずっと長い時間のように刻まれている。一日々々は長い、終わってほしいその日が中々終わらない。だが月日はどんどん流れていき、あっという間にカレンダーが進んでいく。時間が引き延ばされつつ圧縮されていてるような、奇妙な感覚だった。
5万円増えた。
次におれが向かったのは水道橋だった。日曜日だ。
「明日までに金を作らなければならない」やつが競馬を打つ、フィクションでは定番のシーンだ。もちろんたいがいの結末は、であり、おれを待ち受けるのも二次元の潰れかけ中小企業の社長たちと同様のそれであった。
だが、もうどうでも良くなっていたのだ。
金のことも仕事のことも麻雀のことも誰かのことも、もうなにも考えたくなかった。この馬券が一千万になったらな、とも思わずにモニターを見上げる。だがモニターを見ても応援すべき馬がわからない、おれは何番の馬券を買ったのであったか?
着順掲示板と馬券を見比べて、馬券を捨てる。同じことを何度か繰り返しただけであった。
なんだか疲れ切っていた。いつしか自分の人生も、どこまでも他人事になっていた。
根性がない、と言われればハイ、としか言えない。舐めてんのか、と言われても舐めてましたとしか言えない。無責任をなじられても返すべき言葉はない。でも、これで終わりだ、と思ったら、少なくともおれの気は楽になった。
そして、おれはトんだ。
第42話(8月28日)に続く。
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