中央線アンダードッグ
長村大
第43話
ツモ ドラ
こんな手だった。
おれは特にためらうことなくを縦に置く。次巡、あっさりとをツモアガった。
「ツモ、ドラ1でゴットーです」
「あれ、古川ちゃんなんでリーチしないの……ああそうか、モロ引っかけになっちゃうのか」
禿頭の土産物屋のおっさん──といっても60は過ぎているだろうが──がおれの手牌を見ながら一人頷く。
「良い待ちなのにもったいないな、しょうがねえけどな」
おっさんにつられておれも笑った。
寂れた観光地の駅前にあるその雀荘で、おれは「古川」という偽名で働いていた。有名人を気取るつもりは毛頭ない、だがやはり今風に言う「身バレ」は避けたかった。幸いこの店の住人たちは──従業員も客もだ──競技麻雀にも麻雀プロにもビタ一文興味がなかったので、顔面からバレる可能性は低そうであった。
しかし、だからといって安心していたわけではなかった。店の扉が開いて客が入ってくる度に、誰かが探しに来たのではないかと思ってビクっとしてしまう。麻雀も、なるべく扉がよく見える席に座るようにしていた。
寮、というのは店の近所にあるボロいアパートであった。6畳くらいの1Kに二人住む想定の、まあタコ部屋みたいなものだが、幸い住んでいた人間が辞めた直後であったらしく、これを一人で使うことができた。意外と綺麗に掃除されていた上にユニットバスも付いており、テレビ冷蔵庫エアコンなどの家電も古いながらも一通り揃っていた。一応の文明的な生活を送ることができたが、パソコンはなかったのでインターネットだけはできなかった。とはいえ外界と繋がりたいという気持ちはあまりないというかむしろまったく繋がりたくなかったし、あればあったで匿名掲示板など見てしまいそうだったので良かったのかもしれない。原始時代に暮らすのも悪くない。
幸い「今日からでも働いてほしい」と言われたので、その日から日当にありつくことができた。明らかに訳ありであろうおれに配慮してくれたのか、日払いで給料を渡された。あるいはレジ金くすねられるくらいなら小遣い銭渡しておいたほうが得策と思ったのかもしれない。
ちなみに給料は時給9百円、12時間労働で日当1万8百円、ゲーム代のバックは無し。典型的なオールドタイプ雀荘な待遇であるが、文句はなかった。10代の頃に働いていた吉祥寺の「ホップ」は時給7百円であったことを思い出す。悪くない、全然悪くない。
三日四日働いた後に、最初の休日が訪れた。ほとんど着の身着のままであったので、まずは洋服を買いに行った。
自分で言っていて気持ちの悪い話ではあるが、おれはオシャレだと思われることが多い。だが決してそんなことはない、少なくとも自分のことをオシャレだと思ったことは一度もない。たしかに洋服は好きであったが、体系的にファッションを学んだことも学ぼうとしたこともない、買った洋服の管理も極めて雑である。こういう奴はオシャレとは言わない。
とりあえず駅前にあるファストファッション店で、できるだけ目立たない、いわゆる「普通の」シャツやらズボンやらを揃えた。裏道にこの寂れた街にはあまり似合わないヨーロッパ古着の店を見つけたが、素通りして寮まで帰ってきた。
自意識過剰なのはわかっている、だが目立たないことだけが取柄の毒にも薬にもならない服を抱えて歩いていたら、おれはなにやってるのか、という気になってきた。寮に帰って着てみたが、いつも新しい服を着るときのフワフワした気分はまるでなかった。姿見などなかったので洗面所の鏡で見たら、なんだかおれじゃない人間がそこにいるみたいだった。裸ではないことを示すためだけの布だな、と思った。
ただ、一緒に買った伊達メガネだけは少し気に入った。黒縁のなんの変哲もないメガネだが、初めて見たフレームに切り取られた世界は、なんだか妙に新鮮であった。
このメガネはいまだに家に置いてある、もうかけることもないただのプラスチックだが、なぜだか捨てられない。
店で行われている麻雀も旧石器時代そのものであった。モロ引っかけ禁止、オーラス着順の変わらないアガリ、人の着順を変えるアガリ禁止などまったくもって理不尽な従業員制約も当然のように存在したが、おれは唯々諾々と従っていた。そんな細かいことに文句言って少しでも目立つのは本意ではなかったし、そもそも制約があっても問題ない程度の成績が残っていた。別におれが特別に強いわけではない、他のやつらがあまりにも弱かっただけだ。
こういう制約は「それが存在すること」より「存在することが皆に知られている」ことでより大きな不利を受けるものだが、なぜか客側自身もこれらの行動を忌避する傾向にあり、ほとんど同じ土俵で戦っているようなものであった。一度べっとりと塗られた価値観というのはなかなか剥がれない、それがおかしいとも思わないもんなんだな、おっさん達を見ながらそんなことを思った。閉じられた平和がそこにはあった。
二か月か、あるいは三か月くらいは経っていたかもしれない。正確なことはまるで思い出せない。
常連のみ、新規の客など一人も来ない店であり、それなりに馴染んできた頃であった。
閉じた扉を開けて入って来た客は、珍しく見覚えのない顔であった。
第44話(9月4日)に続く。
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