色んな働き方
色んな稼ぎ方がある
「好きな絵の仕事をして、ゴハンを食べられようになる。それまでは故郷には帰らない」
若い頃の西原理恵子さんは、そう決意して東京に出て来たそうです。
水商売などのアルバイトをしながら、予備校から美大へと進学。
在学中から自分で営業して、イラストや漫画の仕事を獲得していたと言うから立派です。
「美大を出たら美術の仕事がむこうから来るなんて、思ったこともない」
言われてみれば当たり前のことですが、そこまで腹をくくってる美大生や専門学校生は少ないかもしれませんね。
学生は在学中から積極的にアルバイトをしましょう。
すでに社会人として働いている人も、会社に迷惑をかけない範囲で、もう一つ仕事してみてはどうでしょう。
「ぼくの最初のアルバイトは、小学一年生の時の、新聞配達の手伝いだったよ」
「山崎さん、それはアルバイトじゃなくて、児童労働ですね」
私の子供のころは日本は後進国(当時の言葉)なので、児童労働と言う概念すら無かったと思います。
時代が違うので、参考になるか分かりませんが、私の今までの一部の仕事歴を書かせて貰います。
祖父母が高知の山間部で農業をやっていたので、小学生の私も農作業をしました。
稲の害虫のカメムシ取りもそのひとつ。
「カメムシを捕まえて、このビンに集めなさい。100匹で五円じゃ」
母親の教育方針なのか、こんな契約で働きました。
ヘクサムシとも呼ばれる独特の匂いのする虫で、タイ料理でお馴染みの香草(パクチー)と似てます。
せっかく出来高制で働くのを覚えたのに、その集落にはお金が使える店が無かったのでした。
母親が小さな町で、一杯十円の飴湯(生姜湯)売りをしてました。
私は店番をしていくらか小遣いを貰うんですが、自分で飲みたくなったら、家族割引で半額払ってました。
「たとえ家族でも、原価割れ販売はダメ」
と言うことでしょうか。
友だちにジャンク屋の息子がいたので、クズ鉄拾いもやりましたよ。
「いいアカ(銅線)じゃないか。まさか盗んだんじゃないやろなあ」
親父さんに睨まれました。
中高生のころは、ヤクルト(もどき)販売店を、自宅で経営してました。
自分で全額リスクを負う初めての仕事です。
後にその権利が売れたのはラッキーで、同時に投資のおもしろさも経験しました。
高校では地学部に所属し、なぜか生産工学入門の本を読んだりしてました。
定型業務から
非定型業務へ
さらに自由に
東京に出て来て、家電の販売店で働いていたんですが、職場の人間関係などがうまく行かずに退職。
翌年の駒澤大学の入学金は親に出してもらいましたが、その後の学費は自分で働いて払いました。
色んなアルバイトをしましたが、いずれも定型業務をこなすだけなので、あまり給料は良くありません。
高田馬場のパチンコ店で働いている時に、いい先輩がいました。
アルバイトなのに、パチンコ台のクギ調整をまかされるほど、仕事熱心で研究熱心だったんです。
非定型業務である、お客さんからの苦情や、後輩のトレーニングも進んで引き受けてました。
私もクギの叩き方を少し教えて貰いましたが、その後の銀玉親方の仕事に役立ちました。
生活費と学費を稼ぐのに、賭け麻雀に手を出したんですが、これはみなさんにお薦めできません。
当時は技術格差と情報格差が大きかったのと、ゲーム代の安さで勝てましたが、今だと成功率は1%有るか無いかでしょう。
(どっちなんだ)
パチンコ店を辞めて一時期雀ゴロ生活をしていたんですが、その店がツブれそうになったので、社長に頼み込んで、雇われマスター(店長)になりました。
「あの店長を配置転換して、私に店の立て直しをさせてください」
て言うんだからずうずうしいですよね。
そこからは、非定型業務の中でも提案型・クリエイティブ型の業務が増えました。
●近隣の事業所への営業回り。
●離れたお客さんの奪回に個別訪問。
●不良客の追放。
●麻雀大会などのイベント。
●タウン誌とのタイアップイベント。
●バイト君の待遇改善。
●取り引き先の再検討。
など。