「日本一出禁を食らった男」
文・赤松薫
雀荘には、「出禁(できん)」というものがある。これは、「もううちの店に来るのは禁止」ということで、マナーの悪い客やトラブルを起こした客に店側が言い渡す。今回登場する、りょうさん(51)は、歌舞伎町の東風戦の雀荘でよく打つ猛者だが「日本一出禁を食らった男」として有名だ。なぜ、そんなに出禁になるのか、りょうさんにお話を聞いた。
一発出禁じゃなくて嫌われるんです
「店の中でケンカとか何か大きなトラブルを起こして即出禁ってわけじゃないんですよ。行ってるうちに、なんか雲行きが怪しくなって、ある日店の人に『もう来ないでください』って言われたり、しばらく行ってない店の常連によそで会ったら『もう来ても店に入れないって言ってたよ』と伝えられたりしますね」
とひょうひょうと語り始めるりょうさんは、長身の男前だ。
<歌舞伎町で何軒もの雀荘を出禁になっているのにまだずっと歌舞伎町で打っていて態度を改めない人>と聞いていたので、どんな強面の人かと思っていたのに、意外だった。
「私が出禁になるきっかけは、店での行動よりもツイッターの発言ですね。自分の楽しみとして、その日行った雀荘であったことをツイートして、それをブログにもして発信しています。初めのうちは身内が読んで、その店のことを知ってる人が『わかるわかる』と楽しんでくれたらいいと思っていたんですけど、だんだん大勢の人に読まれるようになり、影響を与えるようになってきたんです」
それは、りょうさんのツイートの文章がうまくて、内容がおもしろいから、ということもあるだろう。例えばある日のものでは
< 昔メンバーに舌打ちはやめてくれますか?と注意された若い客が 舌打ちはしてません、さっき飲んだ炭酸水の泡が弾けてる音です と痴漢冤罪の人よりも酷い言い訳していました>
<昨日も仕事できるメンバーは代走頼む時も頼んだら2局ぐらいしてもらい、トイレやタバコなどすべてある程度用事をまとめてすましていた。仕事できないメンバーは5巡目とかに突然代走を頼みトイレに立ち10巡目とかに戻ろうとしてた。そういうのを見てて学ばない奴が麻雀負けるのは当たり前>
などと、言わなくてもいいことをわざわざ言っているのだが、なんともユーモラスだ。
「自分が体験したことや見聞きしたことを書いて、その中に雀荘やメンバーや常連の悪口がけっこうあって、自分自身が嫌われて不利益をこうむることはいいと思って書いてるんです。それに対して『うちの店のことをツイートしないでください。ツイートしないなら来てもいいです』と、条件付き出禁にされた店もあります」
一番最近出禁になったUという店のことを詳しく聞いてみた。
「メンバーのA君が『りょうさんが来るなら店をやめる』と言ったんです。
そもそもA君が前に働いていた雀荘で仮装通貨を使ったマルチネットワークが繰り広げられていたんですけど、私がそれを許せなくて痛烈に叩いたことがあるんです。自分はそういうマルチビジネスが大嫌いで、雀荘の経営者が従業員や一部の客を勧誘しているのを批判的に見ていました。
ある日、仲のいい友人Sから『金を貸してほしい』と持ち掛けられ、理由を聞いたらそのマルチの金だというので、『Sみたいに向いていないやつも巻き込むのか』ということが本当に許せなくて、SNSでかなり叩く発言をしました。
その店はもうなくなり、残党のメンバーA君が新しい店で働いてたんですね。
そのU店には自分はもう行きませんが、そこの別のメンバーが『りょうさんを出禁にするなら自分が店を辞める』と辞めたみたいです。
そんな人もいるので、出禁になっても自分が一方的に悪いとは思いませんね」
こんなふうに強い態度でいられるのは、麻雀自体がとても強くて、心根がまっすぐだからかもしれない。
「自分が正しいと思うことに照らし合わせて雀荘やメンバーの悪口を書くと、いろんな人が見てくれるようになって、ますます人の悪口を書くのが楽しくなってきました。
『ここにこんな人がいますよ』なんていろんな情報も集まってきますけど、基本的には自分が麻雀をしに行って、そこでいろんな目にあって、事件を見て、そのことを書くのが楽しいです」
20代で仕事をやめギャンブル中心の生活
ここで、りょうさんの経歴を振り返ってみよう。
りょうさんは1968年名古屋生まれ。現役で早稲田大学政経学部に合格し、
在学中に友人相手の賭け麻雀でひと財産を築いた。
「同級生にすごい金持ちがいて、その人の実家でばあやにカレー作ってもらいながら打ってたんですけど、私が勝ったら相手が熱くなってもっと金をつぎ込んでくるんです。それに付き合っているうちに金は増えました。
大学の近所の300円500円くらいの賭場にも出入りしていました。ちょうど大学の内部がごたごたしていてテストがなかった時期で、麻雀ばかりしていても4年で卒業できました」
りょうさんが準大手の損保会社に就職したのはバブル経済の末期、歌舞伎町ではアングラカジノ、バカラとばくの全盛期で、サラリーマンをしながらもギャンブルは続けていた。退勤後、一晩で月給以上の金が動く世界で夜通し遊んでまた出勤ということもある。
「それほどつまらない仕事でもなかったんですけど、業態の性質上、定期的に転勤があるんですよね。首都圏を転々としているうちはよかったんですけど、そろそろ地方かなあと感じたタイミングで会社を辞めました。
歌舞伎町から離れたくなかったんです。せっかく就職してまともな生活に戻れるかと思いましたが、無理でした」
その後ふらふらしていると金融会社の社長さんに誘われ、1年くらいは闇金の仕事をしていた。
ある日、回収(借金の取り立て)に行った先で『今日夫が自殺して返します』と打ち明けられて自分は即撤収して、逃げ出した。本当にその人が自殺したことで働いていた金融グループに手入れが入り、違法なやり方が露呈して解散になった。
「その後は雀荘をちょっと手伝ったりしていました。麻雀は金を減らさないで暇がつぶせるので。
会社を辞めた後に1度目の結婚をしましたが、ふらふらしていたら妻はネコと一緒に出ていきました」
30歳前後で麻雀の強者に出会う
働いていたころも麻雀は続けていて、このときにいろんな強い人と出会った。
「今となってはトッププロとして大活躍している人たちと、主にセットをしていました。中には『ああ、麻雀ってここまで到達できるものなのか』と感じるプロもいました」
自分もプロになるということは考えなかったのだろうか。
「麻雀には自信があるので少し興味を持ったことはあります。当時は近代麻雀を一生懸命読んでいましたよ。でも、ここでこのレベルの人たちと打てるんだったらプロになる必要はないなと思いました。
麻雀が好きというよりは、麻雀に関わっている人に興味があるんですよね。人が負けて苦しんでいる顔を見るのが何より楽しいです。
だからネットじゃなくてわざわざ雀荘に入って打つんです。この下司な感覚をわかってくれる人に出会った時、『麻雀っていいなあ』と思いますね。
ちなみに、本当に強いと思っている人とは純粋に麻雀のマニアックな話をして楽しんでます」
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