小島武夫プロ
お疲れさまでした
たいへん残念で悲しいことですが、ミスター麻雀こと小島武夫プロが亡くなられました。
早すぎです。
麻雀プロのフロンティアを切り開いた功績はとてつもなく大きくてまさにミスター麻雀です。
小島武夫プロは九州博多生まれ。
地元で麻雀の腕を上げ名を上げた勝負師で遊び人です。
「当時は麻雀で金ができたら中州に飲んだり、清川の遊郭に行ったもんだよ。ガハハ」
飲む打つ買う一式ですね。
地元に居づらい事情が起きたんでしょう、すでに家庭があったのにもかかわらず、浮気相手と東京目指して駆け落ち。
神田神保町の私の店の近くにあった大きな店で働いて、大橋巨泉さんの深夜番組11PMに出演。
当時一般の麻雀ファンが知ることが無かったイカサマを公開。
華々しいメジャーデビューで、ゲストや執筆や公演などの仕事が殺到、収入も飛躍的に増えたそうです。
麻雀戦術本では、やはり神保町にある、日本文芸社から「絶対負けない麻雀」を出版、今も増刷を重ねる超ロングセラーです。
あっという間に大スター。
「山ちゃんね、当時はそりゃあ稼いだよ。毎晩のように作家や芸能人やスポーツ選手と一緒に銀座に通ってたからね」
たいてい相手の人が払ってくれたそうですが、女性目当てで1人で行く時はそうもいかない。
「稼ぎも多かったけど金使いも荒くて追いつかない。ツケを払いに行って、またツケを増やすの繰り返しよ」
どっこい今度は作家の阿佐田哲也先生らと共に「麻雀新撰組」を立ち上げし、さらに知名度と人気がアップ、もちろん実入りも激増。
「俺はねえ、運がいいんだよ」
勝負の世界では、運も実力のうちって言いますからね。
小島武夫プロの自伝「ろくでなし」のキャッチフレーズは、伝説のミスター麻雀、酒と女とカネの無頼75年、とありますが、まさにその通りです。
この本の出版記念パーティーは、私が主催して高田馬場のコットンラブで行いました。
小島武夫プロと親交のある、島本慶さんと末井昭さんたちがやっている「ペーソス」というバンドがゲスト。
たくさんの麻雀プロや漫画家小説家編集者などが駆けつけてくれ、ご本人も楽しそうでした。
あ、思い出した。
話が前後してしまいますが、かつて雑誌「プロ麻雀」の誌上対局を小島プロから依頼され、連載したことがあります。
「山ちゃん、どうかな?」
「え、私でいいんですか?」
と言うのは、私は小島武夫プロと違うタイプで、運不運ツキ流れといった事をまったく気にしないで麻雀を打ち記事を書いていたからです。
私のような異分子を抜擢する心の広さに驚きました。
心の広さか下心かは分かりませんが、女子プロを最初に世に出したのも小島武夫プロが中心になってのことです。
日本麻雀連盟の元祖女子プロの1人の高橋純子さんの述懐。
「私が若いころはアスキーに勤めていて小島先生たちとは取材などで面識があったんですが、ある晩バーに呼び出しをされたんです」
「下心系ですかね」
「恐るおそる行ったら先生の他に安藤満プロや伊藤優孝プロがカウンターにいて、見るからに怖い感じがしました」
すぐに浦田和子さんなどと一緒にスカウトされてプロ活動に専念、物凄い人気者になりました。
現在の女子プロブームの先鞭を付けたのです。
高橋純子さんはアスキーのキャリアを生かし、日本最初の麻雀ビデオゲーム「極」をプロデュース。
井出洋介プロなど他団体のプロも誘って麻雀ゲーム開発の先駆者となりました。
今では「天鳳」などオンラインゲーム全盛時代ですが、ここまで小島武夫プロが見通していたかどうかは分かりません。
たぬもかつてファミコン向け麻雀ゲームを作りましたが、基幹となるエンジンは「極」のものだったそうです。
人って繋がってるんですね。
小島武夫先生
ありがとう
ございました
小島武夫プロは人を引きつけ、人と人を繋げる魅力があります。
小島プロの標榜する魅せる麻雀もそう。
かつての麻雀最強戦でのこと。
小島プロがリーチ。私は対面で観戦していたんですが、「これでピンズ待ちだったらカッコいいな」と思うほどピンズがばら撒かれていたからです。
一発ツモのピンズの3メンチャンは、会場を沸かせました。
「山ちゃんね、麻雀プロは観戦者が納得する一打をしてちゃダメなんだよ」
ほう。
「意外な牌を切って、結果としてそれが生きる打ち方じゃないと、プロのを見る価値が無い」
自分の信念に基づいた価値観と実戦です。
やはりタイトル戦で、小島プロとは競艇仲間でもある子能収さんを立ち見で後ろから応援していました。
蛭子さんがやっと国士無双をテンパイすると、小島プロな何気なく卓を一周しました。
待ち牌の残り枚数のチェックです。何気あるっつーの。