【西原理恵子 & 山崎一夫】プロ団体創立以前に活躍した麻雀のプロ


プロ団体創立以前に
活躍した麻雀のプロ

私が上京して高田馬場に漂着してから、もう半世紀近くになりました。
思えばずいぶん多くの麻雀の先輩や後輩のお世話になりました。

上京のキッカケは、高卒で勤務していた高知の電器量販店チェーンでの転勤と、大学受験のため。

麻雀を覚えたのは、世田谷の駒沢大学に在籍し、高田馬場のパチンコ店チェーンで正社員として働いていた時。
すでに若い私の将来が見えそうな展開です。

当時は完全な手積み時代で、イカサマをやる打ち手が少し残ってました。
麻雀のプロと言えば、阿佐田哲也先生が率いる麻雀新撰組と巷の雀ゴロくらい。

他に私が個人的に麻雀のプロだと思っていたのは、当時麻雀新撰組や麻雀名人戦の設立に尽力した、双葉社の編集者のMさん。

編集者兼記者として、名人戦の観戦記や戦術コラムを書いていました。
私の麻雀の師匠は、フリー麻雀の前身のバラ打ち仲間のパクさん。

鬼瓦のような赤ら顔の巨顔、かつ巨体でした。
早稲田大学時代はどうやらイカサマで小遣いを稼いでいたみたい。
パクさんの元学友の話。

「一緒にバラ打ちに行く時は、ヤツクの指示でトイメンに座った」

現在のたぬでは、同卓希望はトイメンと決まっています。
これは上家下家だと、甘い牌をチーさせたと誤解されないための伝統的なやり方。
でもパクさんのケースは逆に感じますよね。

「ヤツのヤマになると一色牌が流れ込んでくることが多かった」

おそらくパクさんが積み込みをした時に、サイコロの目によって、それがトイメンに流れることを考えてのこと。
当時は

「イカサマは見抜けないヤツが悪い」

という風潮が残ってました。

「リーチ」
「ヤバイ、パクさんのリーチだ。誰か鳴いてツモをズラせ」
「ツモ、四アンコ。誰か鳴くと思ってリーチしたんだよ。グハハッ」

本当かどうかは分かりませんが。

ギャンブルライターとしての私見ですが、一色手や三色などを積み込む人はそんなにレベルが高かったとは思いません。
オリジナルでは無く、劇画あたりからの借用でしょう。

麻雀は10回打ってトップ1回分浮けば上等のゲームです。
そのためには毎局1メンツ積み込めばトップ2回分。

さらに言えば、メンツなど入れて覚えるのではなく、適当に積んだいくつかを覚えてれば十分。
それを言語ではなく映像で記憶。

そのヤマに差し掛かると映像が蘇る脳のメモリとか。

私はそういう才能はまったくありませんが、漫画家の西原理恵子さんにそれを感じます。

数々の取材に一緒に行きましたが、彼女が写真やメモを取っているのを一度も見たことがありません。
取材そのものを最大限に楽しんで、それが自然に面白い漫画を生んでいるようです。

パクさんには麻雀の他にも教えられることも多かった。

「ギャンブルは麻雀と週末の中央競馬くらいにしておけ。毎日できる競輪や地方競馬まで手を出すとパンクする」

いっぱいパンクしている人がいましたよ。

「男ならタダ酒は飲むな」

 

 

麻雀新撰組
田村光昭プロと
小島武夫プロ

見出しで田村光昭プロが先になっているのは、お世話になった順番。
私は学生時代に「高田馬場麻雀大会」を10数回主催していたことがあります。

その時にゲストをお願いしていたのが人気絶頂の麻雀新撰組の田村光昭プロです。
当時としてはプロを招いた珍しい企画と、田村プロの気さくな人柄で大人気でした。

企画の発案者は麻雀仲間で風俗ライターの島本慶さん。

当時は阿佐田哲也先生、小島武夫プロ、先に紹介した編集のMさんたちも、メンゼン重視手役重視の重厚な麻雀が主流でした。
ところが田村光昭プロは、アガリ回数重視の速攻麻雀の名手だったんです。

ゴミ麻雀(500点300点)とか悪口を言う人もいましたが、相手のチャンスを潰してしまうことも考慮すれば、効果は絶大。

大会参加者の若者たちも、田村プロを囲んだ対局に、熱く見入っておりました。
現在でも通じるスピード麻雀ですからね、参加者はラッキーだったと思います。

ミスター麻雀こと小島武夫プロにも、もちろんお世話になりました。

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