5月10日の夜、連盟巣鴨道場で勤務していた私は隣に居た山田浩
「来賀さんが亡くなられたみたいです。」
と伝えられ
「エッ冗談だ
と慌ててスマホで調べると次男の有流君がFacebook
それでもまだ俄には信じられず、嘘であって欲しかったが、何度調べても悲しい現実だった。
そう言えば数日前、本人が体調を崩して入院すると発信したツィッターを見たことを思い出した。
その時はいつもエネルギッシュでタフな来賀さんのことだから、間
【出会いは麻雀最強戦の安藤満】
私と来賀さんが知り合ったのは1997年の第9期麻雀最強戦。
私は師匠であり兄貴分でもある故安藤満プロの専属採譜者として会場に居た。
来賀さんは、元近代麻雀の編集長を経て麻雀劇画の原作を中心に作家として活躍し始めており、安藤満の麻雀を
観戦取材するために来ていた。
少ない運気の中、針の穴を通すような一打一打で決勝進出を決めた安藤満。
その半荘は来賀さんの筆により「完璧な半荘」という記事で近代麻雀に掲載された。
その年も安藤は後一歩で最強位に手が届かなかったが、残念会の席で来賀さんとたくさんの話をした。
【同い年で同じ九州男児】
来賀さんは鹿児島出身で私は福岡、同い年の九州男児同士で麻雀愛も酒も強い2人はすぐに打ち解けて親しくなった。
当時の私は土日は試合か大会の運営、平日はフリー雀荘の専属プロとして午後から夜まで麻雀を打つ仕事をしていた。
親しくなってからは来賀さんは毎日のように店(主に池袋)に来てくれて同卓し、私の勤務終了まで打ってそのあと必ず居酒屋などで
仲の良い後輩プロや来賀ファンの常連客たちも参加することが多く、週に5日は来賀さんと一緒に麻雀して酒を呑む生活が数年続いた。
互いに40代で私はバリバリの連盟A1リーガー。来賀さんは週間漫画ゴラクで連載開始した「天牌」
飲み会では箸袋に気になった牌姿を書いたり面白い局面は来賀ノートにメモを取ったりして闘牌シーンのネタに
していた。
私は来賀さんの原作者としての出世作の1つである「あぶれもん」の大ファンであったが、更にその上を
行くクオリティで麻雀劇画史上最高作品といえる「天牌」に少しでも関われていることが嬉しく、毎日
が楽しい時代だった。
来賀さんの麻雀は極めて真面目で丁寧。
一牌たりとも疎かな打牌はしない、軽い仕掛けや安易なリーチ、ブラフ仕掛けも暴牌も一切無し。
作品に表現される来賀イズムを体現するような漢らしい麻雀だ。
その実力もプロに引けをとらない、天牌連載開始直前の1999年4月プロ連盟主催のG1タイトル第8期麻雀マスターズを獲得している事がその雀力を証明している。
その時の決勝は(当時は決勝5人打ち)荒正義、多井隆晴、河野高
【来賀さんに怒られたこと】
麻雀に対して真摯で頑固な来賀さんを私は一度だけ怒らせてしまった事がある。
その日の最後の半荘、私の下家がいつも負けてる常連のオバチャン、対面が来賀さん、上家がこれまた
いつも負けてる常連のオッチャン。
オバチャンが親リーチ、オッチャンは一目散に見え見えの国士狙いで興奮気味に強打している。
鼻息が荒い、ヤバイかな?
私は生牌のドラの白を切ればテンパイ。
いつもは絶対切らない牌だが役満打っても今日はそれ以上に勝ってるし、サービスのつ
オッチャンが喜色満面に
「ロンッ!」
と手牌を倒す。
オバチャンがすまなそうに手牌を倒す。
ツーランは無いのでオバチャンの頭ハネ、オッチャンはショックで卓に突っ伏す。
悪運強い私は32
店を出て「今日はどこで呑みますか?」と言うと来賀さんは
「今日は帰る、あんな酷い牌を切る人と麻雀の話をしたくないから、明日から暫く来ない」
と言って帰ってしまい、マジで一か月くらい会ってくれなかった(涙)。
それからは来賀さんと麻雀するときは後でダメ出しをくらわないよう、常に真剣に一牌たりともいい加減な牌を切らないように気をつけた。
今でもあれは申し訳なかったと思っている。
【仕事を回してくれ涙】
来賀さんは頑固だけど優しくて面倒見がいい人。
「今度ワラさん(私のことをこう呼ぶ)をモデルにした連載を始めるから色々聞かせてよ、闘牌協力も頼むよ」
私なんかを題材に峰岸信明、来賀友志のゴールデンコンビで連載作品を書いてくれるだけで最高に嬉しい
仕事まで回してくれ涙が出そうになった。
その作品は2002年から近代麻雀オリジナルに連載された「鉄砲」。
北九州市から上京した私が麻雀プロの世界に入り込み、頭角を表していく様を描いたものだが、私なんかのつまんない話でも来賀さんと嶺岸さんの手にかかるとカッコよくて面白い作品に仕上がるから流石である。
残念ながら2年半で連載は終了したが、単行本になっています。
まだご覧になって無い方は是非ご一読ください。