【西原理恵子 & 山崎一夫】一次産業から虚業までいろんな仕事で食べてきた!!

一次産業から
虚業までいろんな
仕事で食べてきた

労働年齢は15歳から64歳の間の50年間だそうです。

私もそろそろ労働年齢を卒業する歳になりましたが、とても仕事を辞めることなどできそうもありません。
借家暮らしの無年金のギャンブル・ライターですからね。

15歳から労働人口に加えられるというのに、違和感を感じるかもしれません。
先進国では、もっと遅いのが普通ですからね。

私は、15歳以前から働いており、ずいぶん色んな仕事をしてきました。
日本が経済先進国の仲間入りする前は、15歳から働くのはあたりまえだったんです。

個人的な昔話で恐縮ですが、経済成長と共に仕事の内容が変わる体験は、何かの参考になるかもしれません。
まず小学校に入る前の林業です。

すごいでしょ。

実父が山師をやっていたので、その手伝いをしてたんです。
父はトラック道も無いような山奥の山林を一山タダ同然で買い取って、木材を切り出して売ってました。

さっそく教訓です。

情報格差と技術格差と行動力が商売になる。
道路の無い山林からは、材木を搬出できないので、山はタダ同然。

父は、当時最先端だったロープウェイの技術を導入して、材木を道路では無く空中経由で積み出したんです。
もちろんリスクは大きいです。

材木の相場が下落したり、ロープウェイの人身事故もありますからね。
私の仕事は杉皮を剥いて、杉皮屋根の材料作りです。

材木として使えない木は木炭にして売ります。
もちろん炭焼窯は手作りです。

山を丸裸にしたら、こんどは蕎麦を栽培し和紙の材料になる木を植えます。

数回繰り返し、腐葉土が回復したら、杉や檜を植林し、手間がかからなくなるくらい数年間育成し、それをまるごと売っ払ってしまうまでが、ワンサイクルです。

最初から最後まで、隅から隅まで、徹底的に活用する。
その実父はずいぶん前に亡くなりましたが、継父は今も元気です。

祖父は山間部の小さな農地の小作人で、父はそれを自分の本業の鍛冶屋の合間に手伝っておりました。
私ももちろん働きました。

害虫のカメムシを手掴みで駆除するのは、歩合制で親からギャラを貰ってました。

1人の時は、アルバイトで買った、トランジスタラジオを聞きながら。
その時の音楽は今も懐かしく聞き返すことがあります。

単純労働も工夫次第で楽しい。 父は田んぼに粉末の農薬を散布してましたが、今思うととんでもない劣悪な環境でした。
タオルを鼻と口に当てただけなので、農薬はほとんど素通りで肺に入って蓄積されたでしょう。

地主に地代を払い、農薬や肥料代を払うと、食べるのがやっとだったと思います。

春の田植えや秋の収穫時期には、父の職場の友だちが、たくさん農作業を手伝いに来てくれました。
体に大きな火傷の痕があったり、指のほとんどが欠損してる仲間もいました。

日当代わりのおにぎりとタクワンだけで、手伝いに来てくれるんです。
それでもみんな、いつもと違う環境と仕事に、笑いあってました。

 

仕事仲間はいいもんだ。

 

ちょっと好きな
仕事ならもっと
おもしろくできる

東京の大学に通うのに、いろんな仕事をやりました。
ちょっと変わったところでは、歌舞伎町のサンドイッチマン。

仕事の仕切りは、ヤクザだったと思います。
日当を払いに来る大柄な中年のハンチング帽の男が

「あの道から向こうには行くな」

と言ってたので、おそらく縄張りのことでしょう。
歌舞伎町では、ゲームセンター荒らしをやりました。

スロットマシンの攻略法をいくつか開発したり、当時としては珍しい目押しで現金をかっぱぎました。
情報格差、技術格差ですね。

やがてどのゲーセンも出入り禁止になってしまい、サンドイッチマンの職場も吉祥寺に変えました。
こちらは歩合制だったので、一時は頑張ったんですが、どうも経営者がヤクザらしいので、実入りの良さは捨てて辞めました。

「おい、今帰った客が交番に駆け込まないか見届けて来い」

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