中央線アンダードッグ
長村大
第8話
ミヤモトに紹介されたのは、T書房の麻雀劇画誌の編集部員である、カワシマという男だった。おれより5~6歳上の若い編集者だったが、話の端々から麻雀好きなことがうかがえる好青年だった。
彼が最初にくれた仕事は、いわゆる「何切る」であった。
読んだことのある人ならわかると思うが、漫画の枠外横部分、「柱」と呼ばれる細いスペースに「何切る」が載っている。それの初心者用問題と、同じように枠外下段にある点数計算問題を担当することになった。
ツモ
を切ればの受け入れが残るので切りよりいいですよ、みたいな基本的なやつ、点数計算問題なら
ツモ
カンチャンツモでナナトーサンになります、という感じのもので、作る側としては麻雀あるあるを考えるようなところもあった。
これを隔週で20問ずつ、月に2回提出していくのが最初の仕事であった。
おれは特に「何切る」作りがうまかったわけではない、そもそも初心者向けの「何切る」は答に迷うような問題にはなりえないのだ。ただ、締め切りだけはきっちり守るようにしていた。それがよかったのかどうかはわからないが、カワシマは徐々に仕事を増やしてくれた。誌上対局の採譜や、劇画の麻雀シーンを作る仕事などだ。
いわゆる「闘牌原作」というやつで、これは非常に楽しかった。自分の作った麻雀シーンが実際にそのまま漫画になる、というのはある意味で感動的ですらあった。もともとおれは麻雀漫画に限らず漫画そのものが好きだったので、その制作に関われるということ自体が嬉しかった。
漫画家と担当編集、おれの三人で打ち合わせしたりするのも、なんだか自分がいっぱしの社会人になったような、大人になったような気分になれて誇らしかったように思う。そんな風に思うこと自体、ガキであることの証左なのだが。
いずれも自分の名前が出るわけではなかったし、単行本になったとて印税が入るわけでもなかったが、それはまったく気にならなかった。
一年二年と続けているうちに、だんだんと出版業界がらみの知り合いも増え、T書房以外の仕事もポツポツとできるようになっていった。
そのころ、俗にいう「実話誌」というカテゴリーの雑誌が大量に出版されていた。もちろん雑誌にはピンからキリまであるとはいえ、内容はどれも似たり寄ったりで、つまりはゴシップとエロ、ギャンブルなどの下世話系だけですべての紙面が構成されているといって問題ない。
おれが仕事をしていたのは当然キリのほうだが、たいがいはロクに取材もせず、というか「あの有名プロ野球選手Aが足しげく通う店の風俗嬢Bがついに語った!」みたいな具体的な人物名がまったく出てこないただの想像が載っていることも珍しくなかった。なにが実話だ。
個人的には、表紙に「温泉美人女将ヌード100連発!」と刷ってあるのに、いくら中を見てみてもヌードどころか温泉の記事すら一つもなかったことがあったのには驚愕した。書いてある内容が嘘ならばともかく、書いてあると書いてあるのに書いてない、なんというか己の適当さのメタファーなのかという気にも一瞬なりかけたが、一秒でそんなわけはない、ただ適当なだけだと気づいた。
まあとにかく、この手の雑誌は麻雀ページがあるものも多かった。当時は親和性が高かったのだ。週末セット麻雀をやるサラリーマンお父さんたち向けの簡単な戦術であったり、雀荘の女の子を紹介する記事であったり(『ギャル雀』なんて言葉もあった、そういえば)、「風俗嬢対抗麻雀大会!」的な企画ものであったり。そういう仕事をしていた。
前にもチラと書いたが、このころはもう、全然大学には行かなくなっていた。一人暮らしは家賃だの生活費だの想像以上に金がかかる、大学に行っているヒマなんかないというのもあったが、なんだかこんな仕事じみたことを始めてしまうと、もう大学のことなんて忘れてしまうものだ。
しかし、思えばこのあたりの数年間がおれの人生においてもっとも社会とコミットしていた時期だったと思う。話題がなければ誰かと無意味な天気の話とかもできたし、わりあいちゃんと人とコミュニケーションが取れていたような気がする。
家を出奔していたわけだが、決して家族と断絶していたわけではなかった。たまに実家に立ち寄って食事したりはしていた。
実家はそれなりに裕福である。そうでなければ、バカ息子を小学校から私立に通わせるのは大変だ。父親の職業は医師で、都内で勤務医をつとめた後に、祖父の後を継いで練馬区で診療所を開業した。いわゆる厳格な家庭ではなかったが、さりとてゆるゆるに甘やかされていたわけでもない、と思う。いや、そうでもない、のだろうか。わからない。
面と向かって言われたことはなかったように思うが、当然親としてはちゃんと学校は出てほしいと思っていたに違いなかろうし、そう言いたい気持ちもあったはずだ。ただ、もはや半分以上は諦めていたのかもしれない。あるいは将来を押し付けるようなことを言いたくなかった、というのもあるだろう。
わざわざ大学までエスカレーターで行ける小学校に入れて、クソ高い学費払って、結局はこれである。当時は罪悪感など感じたことはなかったが、自分がそれなりの年齢になってしまった今、さすがに申し訳ない気持ちはある。気持ちがあるだけでなに一つ親孝行ができているわけではないのだが。
麻雀の仕事をしているのだから当たり前といえば当たり前なのだが、麻雀そのものも、麻雀プロも続けていた。これも前に少し書いたが、ただ、結果はまったく出ていなかった。
リーグ戦は入ったときのC2リーグから2年間昇級できず、その他のタイトル戦も出られるものはすべて出ていたが、予選落ちを繰り返していた。自分で弱いと思っていたわけはないが、さすがになにかしら結果が欲しい気持ち、あるいはそれは焦りでもあったかもしれないが、そういうものが出始めてきていた。
おれが所属していた日本麻雀プロ協会のリーグ戦は、春から秋にかけて行われる。3年目の秋前、ようやくおれは昇級できそうなポジションにつけていた。
その時期は、当時もっともメジャーだったタイトル戦、T書房主催の「麻雀龍王戦」の予選が始まる時期でもある。リーグ戦と違いオールカマーなので、誰でも優勝できるチャンスはある……のだが、やはり予選を突破して本戦まで勝ち抜くのは至難の業である。いかな実力があったとて、そうそう勝ち上がれるものではない。
だが、出場しなければゼロだ。
それほど自分に期待するわけでもなく、その年もエントリーはした。
第9話(5月4日)に続く。
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