中央線アンダードッグ
長村大
第32話
飯田橋界隈を局所的に襲った大不況をペリカ発行という荒業で乗り切ったかに見えた我々であったが、すべてのペリカを回収するには少々時間がかかった。
ある日、事務所で出前の弁当を注文した。
「あ、ないわ」
出前が来る前に金を用意しようとしたソダが、財布を開けて呟いた。
「どうしたの?」
「いや、財布にペリカしか入っとらんねやんか」
冷静に考えると恐ろしい状況である。店で物が買えないのは当たり前としても、道端で警察官に職務質問されれば財布の中まで見られる。当時はそんなこと考えもしなかったが、中々に面倒くさそうだ。
「ちょっと誰か両替してくれへん?」
両替といえば聞こえはいいが、ペリカと現金の交換である。やや答を渋っていると、アナウンサーの孫であるカワシマが答えた。
「いいですよー」
「ありがとな」
「ただし! 1000ペリカ800円です」
「なんでや! 1ペリカ1円が公定レートやろ!」
「それは会社が両替する場合ですね。ボク個人としてはそれじゃあ両替できませんねえ」
カワシマは涼しい顔をしている。
「だって考えてみてくださいよ、ボクは麻雀やチンチロの負け分、全部現金で出してきたでしょ? なのに勝った時にもらうのはペリカばっかりなんだから、これくらいはいいでしょ」
そうなのである。我々が必死面かつアホ面でペリカの張り取りをしている中、カワシマだけは金に困っている素振りがなかった。元々の貯えがあったのかもしれない。
そう言われると現金がないこちらとしては渋々でも従わなければならない、ソダも観念したように3000ペリカを差し出した。
「じゃあ2400円ですね、毎度!」
カワシマが満面の笑顔で金を取り出す。貨幣というものが信頼で成り立っていること、金は低いところから高いところへ流れるという無常を身をもって実感した瞬間であった。
こんなバカげたことを繰り返していたある日、事務所に一本の電話がかかってきた。たまたま近くにいたおれが電話に出た。
「はい、有限会社バベルです」
「おーお疲れさん、オヤマダくん? オオトモです」
オオトモはおれやカジが所属している日本麻雀プロ協会のベテラン選手であり、同時に実話誌系編集プロダクションの経営者であった。さらにそれより以前は名うての麻雀劇画原作者でもあり、それだけ見ればカジとよく似た経歴の持ち主と言えよう。また、比較的保守的な考え方の多い麻雀プロの中では、かなり自由な思考、発想の持ち主であった。
「カジくん、いる?」
「はい、ちょっと待ってください」
カジと電話を替わった。
カジは相槌を打つばかりだったので内容はよくわからなかったが、10分程度は通話していただろうか、長い電話だった。そして電話を切るなり、カジは
「ちょっとオオトモさんと打ち合わせしてくるわ」
と言い残して、さっさと事務所を出て行ってしまった。
まああらかたなにか仕事の話だろう、良い話ならばいいけれど、と思ってそれぞれの仕事に没頭していた一時間ほど後に、カジが戻ってきた。いつになく真剣な顔をしている。
「あのな」
誰にともなくカジが喋りだす。
「オオトモさんが代表選に出たいって言うんだよ」
みなの手が止まった。
代表選、とは、日本麻雀プロ協会の代表を選ぶ選挙である。代表の任期は規約で2年間と決まっているが、ここ何期かは他に立候補する者もおらず、無選挙でそのまま前任が選ばれ続けてきた。
「オヤマダ、どう思う?」
カジが同団体のおれに問うてきた。
現在の代表はタカシロという人間で、カジなどよりも少し上の世代のベテランだ。決して悪い人間ではないが、どちらかと言えば穏健派であった。会の存続を第一に考えており、なにか新しいことを始めるような野心には欠けている部分があった。我々はそれを不満とまではいかないが、「期待していない」状態であったと言えるだろう。
対してオオトモは世代こそ近いが、なにかやりそうな、また、やりたそうな感じの野心的な男に見えた。また、現状彼の会社のオフィス内に日本麻雀プロ協会の事務所を置いており、会の事務的な面にも明るい。
「おもしろいんじゃないですか?」
少しだけ考えてから、おれは答えた。
「よし、わかった」
カジはそう言うと、再び受話器を上げてオオトモに電話をかけて、足早に事務所を去っていった。
第33話(7月27日)に続く。
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