中央線アンダードッグ
長村大
第49話
ジャックダニエル、ロック。なにも言わなくてもバーテンダーの男がライムを絞ってくれる。いつもの飲み方だ。一口すすり、グラスの氷を人差し指で回す、これもいつものおれの癖だ。
などというとなんだか恰好よいみたいだが、もちろんそんなはずはない。なにしろここは吉祥寺南口「ピート」、バーテンダーの男は長身の髭面かつ間抜け面のソカベである。
おれ以外の客はいない、まだ早いからという言い訳がなんとか立つ時間ではあるが、なんとなく今日はヒマそうな気がしていた。おそらくおれ以外の客は誰もこないだろう。はらたいらに全部だ。
壁にかかっているモニターの中でバンドがライブをしている、昔のヒット曲だ、90年代の終わりだったかもしくは00年代の初めだろう、懐かしさはある、だが全然まったく好きではない、ある種のヒット曲は人の記憶を刺激するものだがそれが良い思い出であるとは限らない、むしろ漠然としたその頃の暗い気持ちやしんどさの断片を過去から運んでくるようで、鼻の奥のほうで痛みのようなものを感じる。
「こんなくだらねえやつじゃなくてもうちょっとマシな曲はかかんないんですかね、この店は」
スマートフォンをいじっていたソカベが顔を上げる。どうせツイッターで人の悪口とか、知り合いがおかしなやつに絡まれているのでも見ていたのだろう。この店にはヒマなやつしかいないのだ。
ソカベが無言でリモコンを投げてきたので、検索を始める。インターネットに繋がっているのだ、動画サイトから最近気に入っているミュージシャンを探し出す、まったく便利な時代になってしまったものだ。
一人の若い男がモニターの中で歌いだす、まだメジャーデビューしたばかりのハタチくらいの若者だ、テンポは速くない、グランジーでノイジー、鳴り響く轟音ギター、ダブ、そしてポップでなによりパンク。
CDなど過去の遺物かお布施になりつつある現代、ミュージシャンはフィジカルを売るよりもライブに客を呼ぶことがビジネスになった。自然、今のバンドシーンの若者たちは、誰もがライブ受けするような楽曲をメインにリリースするようになった、もちろんそれが悪いわけではない、ライブのパフォーマンスはみんな凄いし、たしかに盛り上がる。だがどこかに既視感を感じるようにも思える。
だが、この一人の若者の音楽は、シーンとは一線を画しているように思えた。彼がこの先商業的に成功するかどうかはわからない、だがおれは確信する、きっと日本の音楽史にとって重要な人物となるであろうことを。そして夢想する、かつて30年前、あの二人組を初めてみた大人たちはこんな気分だったのでなかろうかと。
そんなことを思いながらぼんやりとモニターを眺めていると、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。ソカベはまだ気付いていない、相変わらずスマートフォンを見ながらにやにやしている。どうやらおれの勘は外れたようだった、はらたいらもたまには間違える。
扉が開いて、ようやくソカベが立ち上がる。
「いらっしゃいませ……ああ、カナイさん、お久しぶりです」
見知らぬ男であったが、ソカベは知っているようである。麻雀関係者だろうか、おれと同年代くらい、細身のスーツに眼鏡の、見るからにインテリ風である。
「なににしましょうか?」
「あ、ウーロン茶をください」
バーに一人で来てウーロン茶とは変わった男だな、と思っていたらグラスを置きながらソカベが言った。
「カナイさん、こちらが元龍王位であらせられるところの小山田さんです」
なんと厭味ったらしい言い方だ。おれは内心舌打ちしつつも、しかし、おや、と思った。こういうことを言われるのをおれはもっとも嫌うし、もちろんソカベもそれを知っている。
「……ああどうも、小山田です」
無視するわけにはいかない、気の乗らない挨拶をしつつソカベを盗み見たが、やつはすでに存在しない洗い物をするために奥に引っ込んでいた。
「小山田さん、はじめまして。T書房のカナイといいます。ソカベさんに聞いてお邪魔しました」
T書房。むろん昔の編集者なら知っている、だがこのカナイという男は知らなかった。それはそうだろう、おれがT書房と関わっていたのはもう十数年も前の話だ。だが、そのT書房がおれになんの用だというのだろう。
「いきなり本題になりますが、小山田さん、ご存じかと思いますが、年末に龍王位戦があるんですよ」
まったくご存じではなかった、今の麻雀界のことはなにもわからない。
「ご存じの通り、今の龍王位戦は昔とはだいぶシステムが変わりました。いろいろなカテゴリで予選を行って、それぞれの勝者を集めて最終的な優勝者を決めるというシステムなんです」
今ご存じとなった。だが要件がわからない、昔取った杵柄で観戦記でも書いてくれということだろうか?
「へえ、そうなんですね。すいません、よく知りませんでした」
今さら、だ。
月日が流れたとはいえ、おれが麻雀界に後ろ足で砂かけて出て行った事実、それは決して消えない。T書房にだって大きな迷惑をかけた、当時から残る編集者ならば憶えているだろう。
今さらどの面下げて、だ。
極力興味のない風を装った。
「出てみませんか?」
カナイの言葉の意味がわからなかった。出る、とは?
「え? どういうことですか?」
「ですから、龍王位戦に出ませんか、ということです」
聞いてもわからなかった。おれはとっくの昔に麻雀プロではなくなっているし、麻雀界との関わりも皆無だ。
「いや、おれはもう麻雀プロではないので……」
「もちろん知ってます。でも関係ないです」
「関係ない、とは?」
「歴代龍王位の予選に出ていただきたいんです、プロとは関係なく。小山田さんが昔龍王位を獲ったときぼくはまだ一介の読者だったのですが、よく憶えています。『デジタルの申し子』、鮮烈でしたし今でも憶えてる人もたくさんいますよ。それでオファーしたいと思ってます」
おれはなんと答えていいかわからなくなって、ソカベに助けを求めようとしたが、やつは相変わらず非実在洗い物と格闘していてこちらを見ようともしなかった。
「……少し、考えさせてください」
その一言だけを絞り出した、おれはグラスの氷を回そうとしたが、そんなものはとっくに溶けていて、当てのなくなった指がむなしく空回りするだけだった。
第50話(9月25日)に続く。
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長村大
第11期麻雀最強位。1999年、 当時流れ論が主流であった麻雀界に彗星のごとく現れ麻雀最強位に なる。
最高位戦所属プロだったが現在はプロをやめている。 著書に『真・デジタル』がある。
Twitterアカウントはこちら→@sand_pudding