【麻雀小説】中央線アンダードッグ 第38話:うつ【長村大】

中央線アンダードッグ

長村大

 

 

第38話

 

朝、起きられなくなった。

おれは元来、朝が苦手ではない。いつも起きる時間であれば目覚まし時計なしで起きられるし、多少早い時間でも目覚まし時計が鳴れば瞬時に起きる。起きた後もすぐに行動できる、いわゆる「寝ぼける」こともなかった。

それが、起きられなくなってしまった。

いや、正確に言うと、起きられないわけではない。目は覚める。だがそこから動けない。

最初は「ああなんだか今日はダルいな」と思う程度であった。10分もすれば動けた。だが、その時間が徐々に長くなっていく。一時間になり二時間になり、ひどいときには一日、阿佐ヶ谷の万年床で寝ていることしかできない。

寝不足なわけではない、睡眠時間は取れている。目に見えて体調が悪いわけでもない。うまく言えないが、気力がないのだ。活動するためのエネルギーがないような感じだ。

なんとかかんとか起きて、無い気力を振り絞って出かける準備をする。シャワーを浴びるために風呂場に行く、それだけのことが苦行に思える。

ところが家を出て電車に乗って飯田橋まで行き、パソコンの前に座って仕事を始めると、あるいはカジやソダと雑談などしていると、いつの間にかいつもと変わらない自分がいることに気付く。朝起きたときの陰鬱な気分は別にない、まったくもって普通だ。

日が暮れても、いつものように麻雀打ったり酒飲んだりしている間は大丈夫だ。なにかしているぶんには問題はない。

だが、誰もいない家に帰ると、ダメだ。またもや暗い気分が押し寄せてくる、それも朝より強くなっている。なにか大きなミスをやらかしてもいない、少なくとも自分で認識できる悩みもない。しかし、なにやら正体のわからないぐにゃりとした重たいものが全身に覆い被さっているようで、もう一歩も動けなくなり、そして死にたくなる。死にたい気分になる。

もちろん実行はしない、死にたいわけではないのだ。けれども、もしここに誰にも迷惑かけず、後始末もなくて、おれのことを知っている全員がおれのことを忘れて、そしておれがいなくなるボタンがあれば迷いなく押すのに、と思う。ボタンがあればいいのに、と思う。

 

だがボタンはないし、寝た後には来て欲しくない明日がまたやってくる。これの繰り返しだった。

 

さすがにこれはなにかまずい気がする。すでに実生活に支障が出ている、精神科に行かなければならない。当時はまだメンタルクリニックなどという言葉はなかったと思う。

おれは実家が医者なので、ほとんど病院に行ったことがない。まれに風邪くらいは引くことがあったが、その程度なら家で薬をもらうことができた。そもそも大きな病気などしたことがないのだ。

だが、なんとなくこれは誰にも言いづらかった、親にも。インターネットで評判の良さそうな病院を自分で探し、恐る恐る訪ねて行った。吉祥寺の駅から数分、スポーツで有名な女子高のそばにある、小さな医院だった。

 

かなり白髪が混じったグレーの髪の毛のおかげで一瞬年寄りに見える医師はしかし、顔を見ると意外に若いようだった。おそらくまだ40代であろう。物腰の柔らかい、しかしそれでいて少し早口な、根拠はまるでないが信頼できそうな人物に思えた。

「えーと、じゃあ気になっていることを全部言ってみてください」

おれは朝動けないこと、活動している間は問題ないこと、夜さらに気分が落ち込むことをそのまま話した。

「他になにか体調の変化はありますか?」

「関係ないかもしれませんが、最近腸の調子が悪いような気がします」

「なるほど、わかりました」

デスクにメモを置いて、医師が言う。

「典型的なうつ、ですね」

なんでも、朝晩に気分が落ちるのはよくある症状で、死にたくなるのも珍しいことではないという。

「お腹の調子が悪いのも、脳がストレスを受けるとセロトニンという物質がたくさん分泌されて、それが腸の活動を活発にしてるからなんです」

「鬱の症状も普通の病気と同じで、物理的な原因が必ずあります。さいわいオヤマダさんはまだ軽い症状ですので、軽めのお薬を出します。これをきちんと飲んで、来週また来てください」

 

「うつ、ね」

誰しもそうであろうが、まさか自分がうつになるとは思わなかった。だが、医師の説明は理にかなったものであり、心の病といえども原因は物理的なところにある、というのはずいぶんと気が楽になる話であった。

帰りすがら、さっき処方された錠剤を口に放り込み、おれは一つの決心をした。環境を変えねばならない、不規則極まりない生活を何年もしているのだ、少し疲れたのかもしれない。

 

翌日、おれはバベルをしばらくの間休む旨を、カジに伝えた。うつ、とは言えなかった。自律神経の調子が悪い、ということにした。

カジもおれの近頃の様子がおかしいことは感づいていただろう、すんなりと了承してくれた。

別に縁が切れるわけではない、カジの温情で、バベルでおれがやっていた仕事のいくつかはそのまま個人として引き継ぐことができたし、事務所に顔を出す機会もあるだろう。

だが、やはり少しの寂しさはあった。

おれが会社という組織に属していたのは、後にも先にもバベルにいた期間だけである。

 

 

第39話(8月17日)に続く。

この小説は毎週土曜・水曜の0時に更新されます。

 

長村大
第11期麻雀最強位。1999年、当時流れ論が主流であった麻雀界に彗星のごとく現れ麻雀最強位になる。
最高位戦所属プロだったが現在はプロをやめている。著書に『真・デジタル』がある。
Twitterアカウントはこちら→@sand_pudding
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