西原理恵子 & 山崎一夫 雀荘に寝泊まりする昭和のギャンブラー!

雀荘に寝泊まりする
昭和のギャンブラー

平成時代の雀荘は、昭和時代に比べるととても健全です。

素性の知れない者が経営者だったり従業員だったり、あるいは暴力団が出入りするようなことはまずありません。

営業許可には厳しい審査があるし、身元を確認した従業員名簿も備え付けてます。
また、暴力団員との関わりが少しでもあれば、当局から厳しい指導と処分を受けます。

「暴力団員が何か言って来たら、自分で対応しないで警察に知らせてください。
 相手は組織と武器を持ってます。それに対抗できるのは私たちだけです。任せてください」

ところが今から30年くらい前までのバラ打ちの雀荘は、遊び人たちの巣窟でした。

なんせ、堂々と身分を名乗る組員やヒットマンまでいたんですから、今では信じられません。
今回は、当時雀荘で寝泊まりしていたギャンブラーたちの紹介です。

東京の神楽坂の店にいた雀ゴロの通称アニキは、店のソファがそのまま住所でした。
ニ百円の東風の店なので、雀ゴロとして、食っていくのにはギリギリのレートです。

差しウマOKの店なので、それで稼ぎを上乗せし、さらに月間ポイントレースの賞金を入れて、なんとか雀ゴロ生活が成り立ちます。

アニキは手数が多く、相手のチャンスを徹底的にツブすタイプ。
勝率は高いんですが、あまり差しウマの相手には恵まれてませんでした。

「お前の乞食麻雀なんかに付き合ってられるか」

カモに嫌われない打ち方に修正を試みましたが、自分のフォームを崩して、勝率がかなり落ちてました。

アニキが徹底してたのは、稼ぎにならないメンツは、なるべく打たないこと。

「おい、卑怯者。寝てないでたまには付き合え」

「やらねえよ。俺たちがツブし合っても、店を儲けさせるだけじゃねえか」

今のフリー雀荘で、こんな口のきき方をしたら、たちまち出入り禁止ですけどね。
その代り、カモが来ると徹底的に勝負。

相手の金か体力が尽きるまで何日でも付き合うんです。
ボーナスをそっくりカモられた人もいました。私もちょっとだけ貰いましたが。

 

 

掘りごたつの麻雀卓が
遊び人の寝床

私が学生のころ、一時期高田馬場の雀荘を、大学届け出の住所にしていました。

その店は、普通の椅子式の麻雀卓の他に、座卓と呼ばれる掘りごたつ式の卓(手積み)が5卓くらいありました。

この和室のような座卓に、ほとんど住んでいるような雀士がたくさんいました。

ヒゲさんと呼ばれる、まさにヒゲ面の三十代の男性は、近くの中華料理店勤務ですが、リュックサックを持ち込んで、寝泊まりしてました。

趣味は見たまんまの登山。

「山小屋やビバーク(緊急野営)に比べれば、ここは天国だよ」

ヒゲさんは誘いがあればいつでも、シュラフから抜け出して打ってました。
バラ打ちの成績は、どちらかと言うとカモに近いほう。

「将来は店を持ちたいのに、これじゃ夢が遠ざかっちまう」

麻雀の負けで、定期預金や定期積み金を解約したことをボヤいてました。

麻雀の負けを踏み倒す人が多いなか、キッチリをした性格で麻雀仲間にも好かれてました。
登山で肉体的にも精神的にも鍛えられているせいか、麻雀もすぐに強くなりました。

私の師匠でもあった、鬼瓦のパクさんの麻雀を後ろ見させて貰ったのが、上達の近道だったようです。
たまにパクさんが、牌を伏せてツモと手牌進行を見せない時がありました。

たぶん、積み込みなどのイカサマをやっている時だったと思います。

「一発ツモ、裏ドラ3枚!」

とかね、
ヒゲさんは雀荘に出前にも来てました。

「チャーハン2つ余ってるけど、誰か買ってくれない?」

どうやら余分に作って来て、その分の売り上げをネコババするつもりのようです。

「百円引きなら食うよー」

事情を知ってる客もセコいのでした(私ですが)。
ヒゲさんはやがて麻雀に負けなくなり、給料も上がってネコババもやめました。

とうとう念願の自分の店を持つことになり、その後いっさい雀荘には顔を出さなくなりました。

趣味の登山にしろ麻雀にしろ、新たな商売にしろ、やる以上はそれに集中する性格のようです。 商売は順調らしいという噂を聞いて安心と納得をしました。

その当時、元祖風俗ライターの、なめだるま親方こと島本慶さんも、徹マンの後よく掘りごたつで寝泊まりしてました。

「行って来まーす」

朝は雀荘から隣の会社に出勤し、昼食時にはカレーかうどんを食べに戻って来ます。

「そいじゃ夜ね」

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