中央線アンダードッグ
長村大
第18話
ドラ カンドラ
フリテンリーチである。
自分で1枚使っているリャンメン待ち、しかも同じ色のホンイツ手がいる状況。もしこれがフリー雀荘やリーグ戦の一試合であれば、ダマテンに構えただろう。打点はあるが、少し状況が悪い。は目に見えているところに3枚、当然マツダが複数枚持っている可能性も高いし、オリ気味のカジとホリエが何枚か抑えていてもまったく不思議ではない。フリテンでのめくり合いは、いかにも分が悪い。
だが、この状況はどうだろう。
優勝しか意味のない半荘で、トップ目とは3万点以上の差。東場の親はすでになく、相手の親番だ。そしてなにより、一応の手が入っている。もちろんなにが起こるかわからないのが麻雀ではあるが、普通にやっていたら3万点差を引っ繰り返すのは難しい。
分が悪くとも、トータルでは損であろう選択だとしても、無理を無理やり押し通すことができれば──。
祈りに、意味なんてない。
どんなに祈っても、どんなに願っても、積んである牌は変わらない。人の想いで、アガリ牌になったり当たり牌に変わったりはしない。牌が割れそうなほど気合入れて盲牌しようがケツの穴でツモろうが、同じだ。それは時にひどく残酷で、不条理にも思える結果を我々に強いるだろう。だがその結果を誰のせいにも──己のせいにすら──せずに受け入れなければならない、たらもればもひとかけらも存在しねえ、それが麻雀のもっとももっとも偉いところであり、存在価値だ。
でも、もしかしたら俺はこのとき、祈ったかもしれない。あるいはいつもと同じつもりの発声やツモ動作にも、少なからず力が入っていたかもしれない。
おれは一発目のツモ牌を河でなく、手牌の横に置いた。であった。
裏ドラはなかったが、ハネマン。がそこに置かれていたのは、どこまでいってもただの偶然であり、意味など求めようもない。だが上でも下でも左右でもなく、「そこ」に置かれていたことによって起こった結果には意味がある。
この局はこの半荘最大の山場であると同時に、おれの人生そのものにおいても大きな山場となった、言うまでもなく結果的にではあるが。
このアガリでホリエとの点差が大きく縮まったとはいえ、まだ一万点以上の差が残っている。しかしなぜか、ここから後はすべておれに都合よく進んでいった。
次局、配牌でドラ暗刻のファン牌トイツ。すぐにポンテンが取れて、しかも端がらみのリャンメン待ち。どこから出ても喜んでアガるが、これがホリエからこぼれた。満貫直撃、たったの2局で逆転である。難しいことはなにもない、ルールさえ知っていれば産まれたてのボストンテリアでもアガれる手、これが実際の逆転の瞬間だった。
南1局、今度はドラ入りのダブ暗刻をツモアガリ、満貫。
南2局の親番は、大物手が欲しいマツダとカジ、ホリエへの直撃を警戒して流局、カジとホリエの二人テンパイ。ホリエはなんということのない手だったが、カジの手牌はメンチンであった。そしてこれが、カジが手牌を開いた唯一の局となった。
南3局、ホリエの親。配牌時に自分の異変に気付いた、右手が痺れているのだ。「痺れる勝負」とかそういう比喩的な意味ではない、フィジカルの問題だ、実際に右手の指先の感覚が鈍いのだ。
疲れ、だろうか。といっても、たったの半荘6回目である。あるいは逆に、たったの半荘6回でそれだけ疲労したということか。わからないが、別に嫌な感じではなかった。ただ単に痺れを自覚しながら麻雀を打った。いずれにしろこんなことは後にも先にもない、この先も起こらないであろう、おそらくは生涯で一度の感覚だった。
痺れを感じながら取った配牌はしかし、またもや軽いものであった。5巡目でピンフテンパイ、すぐにホリエから出る。
オーラスも、まだ痺れの感覚は続いている。
静かだ。ギャラリーは誰も声を発しない、配牌を取る音だけが会場に響く。小鳥がどこかで瞬きする音も、おれにはちゃんと聞こえるだろう。
満貫直撃もしくはハネマンツモがホリエの条件だが、正直に言えばそんなものは条件の顔をしているだけだ。この1局でハネマンをツモる確率がどれだけのものか、ホリエとてもちろん理解している。
だが、そのわずかに残る低い確率すらも関係なかった。
安全牌を持ちつつホリエに備える必要もない、ファン牌暗刻がすぐにテンパイになる。ギャラリーが一打一打、オーラスの緊張感を味わう時間もさほどない6巡目、あっさりとツモアガった。
終わり、である。おれの優勝だ。
その瞬間、右手の痺れがスッとどこかに消えていくのがわかった。
第19話(6月8日)に続く。
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