文・丸善ジュンク堂書店 小杉悠平
「麻雀最強戦 the movie」を、地元京都は出町座で鑑賞した。
新宿の映画館で300人キャパの劇場を3日間押さえようとした金本晃実行委員長は、麻雀映画などというニッチなジャンルには「ハコが大きすぎる」として、当初反対されたのだという。
それでも彼には勝算があったのだろうし、蓋を開けてみれば、公開を延長するほどの満員御礼になったというのだから、やはり麻雀狂の読みは違う。毎年毎年、現場で最強戦の熱を直に浴び続け、ついには爆発してしまった頭髪の持ち主である実行委員長には、だから確信があったのだろう。
この熱狂は「外」にも広がる、と。
丸善ジュンク堂書店に勤める私にとっても最強位は、最初に認知した麻雀のタイトルであり、読者としても憧れのタイトルだ。
むろん地方の予選会に出場した年は、一度や二度ではない。雀鬼会が強かった最初期から(プロ否定宣言!)システムを少しずつ変更し、今では日本最大級のオープントーナメントとなっている。麻雀最強戦も、いずれM-1や紅白歌合戦と並ぶ師走の風物詩として数えられる日が来るかもしれない。
何せ、多くのタイトルを獲得してきたトッププロでさえもが、未だに一番欲しい称号として「最強位」の冠を挙げるほどだ。それほど、インパクトや認知度や歴史が違うということだろう。
金本実行委員長の「日本で一番麻雀が強いのは、誰だっっっ!(迫真)」の煽りもすっかり人口に膾炙した。
それにしても、終映後のトークショーで開口一番、挨拶代わりにこの文句を発し、会場がややウケしたのにはむかついたし、口上を生で聞けた「お得感」にしばしとはいえ感慨に浸ってしまったあの時の自分を、今では棍棒で滅多打ちに殴ってやりたい。
閑話休題。
そんな最強位の称号をもっと世に知らしめようと、2020年に悲願の戴冠を果たした多井隆晴は、瀬戸熊に会うたびに「最強位様、おはようございます」の挨拶を強要した。ハラスメントとはこのことだが、意図を汲んだ誠実な盟友も、そのノリにノリで応じた。
多井隆晴から瀬戸熊直樹へ。
最強位がこのタイミングでこの両者に継承されることで、どれほどの価値や宣伝効果をもたらしたことだろう。共通項は自団体のトッププロというだけではない。
彼らは最強位戦にとって、実に働き者で献身的な男たちなのである。多井は「最強位」であることを連呼することでタイトル自体に更なる箔を付け、オレ流のやり方で最強戦や竹書房に恩返しをした。一方の瀬戸熊も予選終了後の深夜長時間に及ぶ動画配信や今回のような映画舞台挨拶行脚で、最強位としての責務を立派に果たしている。
最強位を獲ろうが団体最高峰のタイトルを獲ろうが、そのように振る舞わねばならないという決まりも必要もない。誰からも強いられていないし、黙っていても誰も文句は言わない。エンタメとして消費されることがタイトルの価値を毀損すると考える打ち手すらいるかもしれない。
だが、多井も瀬戸熊も常に視聴者=お客様ファーストの打ち手である。斯界の第一線にいる本物の「プロ」とは、彼らのようなことを言うのだろう。プロであるからには魅せねばならない。サービス精神が旺盛であるという点においても、彼らの価値観や志向性は共通している。
あるいは本映画にも登場する、Mリーグの生みの親であり、自身も2014最強戦の覇者である藤田晋社長。麻雀プロをどうにかしてやりたいと立ち上がった、麻雀界の救世主。
そして「東大式」を標榜し、早くから健康麻雀の普及に努めていた井出洋介。
彼らもまた、麻雀界とその「外」について常に考え、実際に行動に移してきたという点でプロ中のプロだし、むろんその巨大な功績については知っていたものの、今回インタビューに応じる彼らの姿を見て、改めて頭が下がる思いがした。
こうしてドキュメンタリー調の映画は、ちょうど1年前の「麻雀最強戦2021」の予選から対局者のインタビューをまじえ、時系列順にその帰趨を追っていく。
どんな組み合わせの対局でもドラマが生まれると言われるくらい劇的な最強戦だが、2021も例に漏れず「事実は小説より奇なり」を地でいく短期決戦の名勝負を輩出し続けた。
とりわけ全日本プロ選手権における日本プロ麻雀連盟・原佑典の門前清老頭(自摸なら四暗刻)和了は、放送対局ではおそらく空前絶後、二度とお目にかかれない記録映像として本映画に収められたことが、極めて貴重なアーカイブとなった可能性は高い。
映画的体験としては、スクリーンの大画面で牌や麻雀プロの半身が躍動する、あの迫力に酔い痴れた。牌の音も全自動卓の撹拌音も、すべてが美しく、心地よい。
オープニングを飾るに相応しいお洒落なジャズピアノとの「セッション」も素敵だ。途中、何度か挟まれる「ただいま球場音だけで放送しております」のような場面も新鮮だった。実況も解説もない、ただただ4人が卓を囲み、見えない牌をめくり合う光景。
対局者の息遣いがリアルに聞こえてくる。その場に立ち会えた者だけが感じることのできる、震えるような緊張感と、押しつぶされそうな極限の空気。観客もまた、それを疑似体験できる。テレビやネットではなかなか味わえない、正しく映画的な経験であった。
クライマックスはもちろん、最強位決定の瞬間。
劇的な倍満ツモ条件の成就。しかも2枚あるとはいえ裏ドラが乗りにくい形からの裏1条件。瀬戸熊自身は、裏話としてその所作を反省していたが、魂を込めた強打も、震える手指も、牌を握り潰さんばかりのグリグリも、何もかもが映画の「演出」として役者に要求する動作として完璧だ。そしてむろん、それは演技ではないのだ。これこそがドキュメンタリーの、リアルな凄みなのである。
巨大なスクリーンからは、日本プロ麻雀連盟・一瀬由梨のすすり泣く「音」が聞こえてくる。オンタイムで観戦していた時、その展開の意外性に胸を打たれ、なぜか無関係の私がひどく狼狽してしまった。それは一種の、共感性羞恥というやつだったかもしれない。
筋書きのあるドラマでも、このタイミングから女優に涙は流させない。いったい、なぜなのか。どうしたというのか。
その時は、大舞台での経験の浅さからくる過度のプレッシャーに加え、同卓者である醍醐大や宮内こずえ、何より瀬戸熊直樹の迫力に気圧されているのだろうと勝手に推測していた。一瀬の「奇行」とも言えてしまいそうな嗚咽と悲壮感に、引きずられ、集中を切らされている者はしかしいないように見える。一瀬以外の三人は百戦錬磨のベテランだ。実況の日吉だけが彼女を励ましている。
それは実に奇妙な光景であり、状況だった。
確かに恐怖だろう。自分でも、泣きはしないにしても震えるだろうな。
すっかり私は一瀬に感情移入していた。
結果的には、一瀬のこの涙は多大な効果を映画にもたらしたように思える。来るべきカタルシスを用意し、圧倒的な感動に寄与する役割を担ったのではないか。たかが麻雀で人は泣くし、震える。キャリアの浅いプロと幾つものタイトルを獲得してきたベテランプロが平等に同卓し、見えない牌をめくり合う。そのシンプルさ、故の残酷さ。麻雀の、魅力。
そして涙は、一瀬自身の知名度向上にも大きく貢献したことだろう。「裏セレブ」の異名を持つこの女流は元来、不思議な色香を漂わせている。またひとり、魅惑的なプレイヤーが誕生した。本映画における、助演女優賞と最優秀音響効果賞?のW受賞に値すると思う。
後に彼女は述懐する。涙の理由を。
そして、思えばこれが、最初の涙だった。
それが契機であったかのように、ここから文字通り堰を切ったように、麻雀最強戦はフィナーレに向けて、涙で濡れ、涙に彩られていく。
映画は終幕したが、むろん最強位を巡る戦いは終わらない。
今年もまた人々を嘆息させ、熱狂させ、感動の渦に巻き込むクライマックスが待っている。そして飽きもせずまた呟くのだ。
「映画かよ」
麻雀最強戦 the movieはまだまだ公開中。ホームページはこちら